2021年03月06日

欲しがりません勝つまでは、で本当にいいの?

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マインドフルネスは社会的レジスタンス運動と思っているから、コロナの社会的側面について何も言ってこなかったけれど、ここでひと言書いておきたい。日本ではなぜ暴動が起きないのか?と。暴力がいいと言ってるわけではない。ひたすらの忍従にもほどがある。そのはけ口が体制ではなく、個人や自分に向かっているのだ。

そうしてSNSやヤフコメで文句ばかりを書き込んでいる。この状況を変えようとは思わずに、一時的でお気軽なはけ口だけを探しているのだ。そのためにネットは便利だから。むしろガス抜きをさせるために、その部分だけが野放しになっている。それで済めばいいのだが、そうやってじわじわと生殺しになるのを手をこまねいて待っているのが、この国の集合的なマインドなのだろうか? 何かに似ている。

戦時中もそうではなかったのか? そうやって忍従しながら相互監視(自粛警察)をしたり、(当時は)天皇陛下を拝ませておいて、思考停止をし、号令がかかれば自動的に一方向に引きずられていってしまう。大勢に疑いを持たない。この国の集合的なヤバいマインドが、コロナ1年たって発動してしまっているような危惧を覚える。

マスクは表情を閉じ込めるに恰好なツールだ。マスクを取ったらみな同じ顔だった、というホラーなことにならないよう、自分の頭で考えることだ。今日本がこのようであるのは政治や医療ばかりではなく、文句ばかりを垂れ流して一人ひとりが人のせいにし、主体的に考えなかった結果である。

考えるとは何だろう? 多くの人は自分の頭で自由に考えていると思っている。しかし実際考えなど、メディアや友人や天気模様などによって簡単に覆ってしまう。瞑想で考えをストップするのは、いったん「いのちベース」に戻り、そこから世界を見直すことだ。考えなくなることではない。

健やかに考えること、「随処作主」=あらゆる状況において自分自身を主とし、主体的に考え、行動することが、先の見えないコロナ時代にはとくに必要だ。瞑想は人を盲目的忍従から解放し、意味のある努力に向け、力を自分に取り戻させる。主体的に生きるための瞑想だ。社会から遊離し、自分だけに安住して人のことはお構いなしでは、主体的に生きているとは言えない。

首都圏の緊急事態宣言がさらに2週間延長され、その先も見えなくなっている。これ以上耐えきれないという声があらゆる業界から上がっている。それぞれのサバイバル力が試される。言われることにただ従っていたのでは、干されてしまうかもしれない。主体的に生きることを取り戻すのだ。

もちろん各自事情は違う。保障や改革や働きかけは必要だ。しかし「それだけ」に頼っていて自分から打って出なければ、これからますます行き詰っていくだろう。ぼくは去年を「コロナ元年」、今年を2年と考え、少なくとも自分が生きているうちはこのカウントを続けようと思っている。生活の制限はこの先も数年続くと見積もり、この半年ほどはすべてを組み替えることに腐心してきた。当分この里山で籠って生活できる態勢だ。

どれだけの人が「終わらない」ことを前提に考えているだろうか? あまりにも苦しすぎるから、考えないようにしているのだろうか? 諸行無常だ。終わるかも、終わらないかもしれない。どちらにせよ、以前と同じ世界は戻ってはこない。終わらないことも考えに入れつつ、今ここで現実的な対処を考え、短期的、長期的に実行していく。瞑想はそのためにも役に立つ。心配に余分なエネルギーをやらないようになるからだ。

多くの人がコロナ収束、または終息のために働いていることに感謝している。ぼくがそのために協力できるのは、自分が感染しない、させないことくらいだ。けれど無力感は感じない。できる範囲で今はオンラインを主体に、様子見をしながら仕事や生活をアレンジし直していく。それはわくわくするような挑戦である。やった経験のないことを、初めての世界で試しているのだから。


posted by ダー at 11:13| Comment(0) | スピリチュアル・瞑想・心 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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