2020年06月17日

誠実さが、出てくる音を美しくする

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(1992 メキシコ、ヒッチハイクで行ったカリブ海にて with Iris)

誠実さと不誠実について、今年3月9日に行われた水城ゆうさんのインタビューを繰り返し聴いている。3月後半、これをもとに2回にわたってぼくは水城さんと対談した。
https://www.youtube.com/watch?v=bba3BrGlPV8
ぼくも知っている板倉克行さんのエピソードである。
https://bit.ly/37D1wR9

酔っぱらってそれが命取りになった点では、ぼくが好きな中島らも、高田渡さんともそっくりだ。実際に会ってみれば人間的にはひどいと感じる人が多いだろう。それほど周りに迷惑をかけるくらいなら創作なんてするな、という意見もわかる。品行方正な創作者もいる。どちらがいいというわけではないし、作品がすべてとも言わない。

ただ、何が作品の質を決めるのだろう? テクニックはもちろんだ。その上で、何が音楽なら音を、文学なら文章を、朗読なら声を、舞踏なら姿を、決めるのだろう? 

決定的な要因は、水城さんが言う通り、誠実であるということしかないように思う。まずは自分自身のニーズに。創作する人であれば、自分のすることが嫌いなわけはないけれど、周囲の評判や経済的な事情でどうしても己を曲げがちだ。するとたとえ人に受け入れられても、自分が自分に対してのけ者になる。

こうした方が売れるだろう、人に気に入ってもらうためには、、、そうして生活を成り立たせる。それが大方かもしれない。仕事の質については妥協しなくても、自分自身に妥協する、つまり自分に言い聞かせるのである、仕方がないと。

ぼくはどうなのだろう? 今まで誠実に仕事をしてきたかというと、拙くてはあってもこれが自分だ、と言える自信がまだない。周囲の評価と、自分が知っている(本当に納得できるかどうかの)自分は違うのだ。

痛切に感じるのは、本当にすごい人(たとえば渡さん)は、覚悟が決まっているということだ。覚悟していないようでいて、もう自分はそれ以外にないんだ、というあり方を見ればわかる。ついに酒をやめられなかった滅びゆく彼を見て、ぼくは心底渡さんを好きになった。だから今でも彼はぼくの中で生きている。

ぼくはどのように滅びゆけるのだろう? 同じ死んでゆく姿ならば、どのように生きて死ぬのか?それだけが問題だ。いま日々誠実さをかけられるのは、翻訳と詩である。自分が綴る文章が、せめて自分に恥じないようにしたいと思う。それは決して楽しいだけの作業ではない。因果なものである。なぜ自分が?と思うこともある。ぼくには選択肢がないのだ、ぼくは名指しされたのだから。

何を書いてもこれが自分の言葉と言えるものが欲しい、切なる願いはそのことである。それは水城さんをはじめ多くの人から問われているメッセージなのだ。

水城-島田対談 その1
https://www.youtube.com/watch?v=M7Y96QdlDOI&t=322s
水城-島田対談 その2
https://www.youtube.com/watch?v=YO77sPXo_YA
posted by ダー at 11:04| Comment(0) | スピリチュアル・瞑想・心 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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