2020年06月13日

死が奪うことのできないもの

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去年父が亡くなって、とうに亡くなった母があり、すでにふた親ともいない。そうして1年が経った。死は喪失であり、虚空に放り出された気がするが、そうとすればぼくらは虚空で生きて行かねばならない。しかし事実として、ぼくはここ地面の上にいる。

父は亡くなってはいない、母もまた。すると彼らの肉体は一体何だったのだろう?今何であり続けているのだろうか? 死を想うことは、今ここの自分を想うこと、「私は誰なのだろう?」という問いだ。いわばそれがすべてであり、死は経過する現象のひとつに過ぎない。私というものもまた、過ぎ去っていく。喪失ばかりを嘆くなら、今ここさえも虚しい。すべてを渡してしまってはならない。

父母はすでに安定的な場にいる。見舞いも、見送りも必要がない。雨の中傘をさしながら弔いの時を縁者と共有することはあっても。なぜそのような了解に至ったのだろう? 

それは、いまわの際に父と呼吸をともにしたからだ。亡くなるまでの約9時間、ベッドサイドで呼吸をじっと見ていると、お互いの息はまったくひとつになる。ひとつになった呼吸は、けっして失われることがない。それはspirit(息respirationの原義)の呼吸だ。

墓に行くと、父と母が全き安らぎの中にいることがわかる。それだけでも行った価値があった。あそこでそうならば、いつもそうであるはずだ。夜の瞑想の時間、数十人の人たちと一緒に座る。オンラインで瞑想することの利点は、全国ばかりか世界とその場でつながれることだ。彼らの呼吸を感じる、呼吸を通じて一体となる感覚がありありとしてくる。空間の隔たりを超えてつながれるのは、「存在の呼吸」があるからだ。それは父と共有した息そのものだ。

肉体的な息、心を映す息、そして霊的な息がある。瞑想会でその話をした。ぼくらが死んでも死なないのは、霊的な呼吸を共有できるからだ。それは聖霊のように絶えずぼくらを出入りしている。祈りが届くのも、それが「息乗り」だからだ。息に乗って思いは届く。会えないからこそ、とりわけ死者と交流できるのは肉体の呼吸を超えた、息によってつながる霊的なレベルを人が持っているからなのである。

超常的な現象ではなく、極めて日常的な感覚だ。つねにここに父母がいるならば、当然あなたは父母に似る。好むと好まざるとにかかわらず、ぼくらは始源の写し絵なのだから。この指、この目、この思いまでが、父母や先祖の代役としても働いている。ぼくらは今この時代に何を見届けているのか? 集合意識は見逃さぬよう見つめている、憐れみ深いこの目を通して。

その背後にある気づきの目が、さらに時代を通じてすべてを証してきた。ぼくが見るものは、すでに誰かによって見られたもの、これから目にするものもすでに見尽くされたものだ。預言者は謂う、「今あることは既にあったこと、これからあることも既にあったこと」「すべての出来事、すべての行為には、定められた時がある」(コヘレトの言葉:第3章15〜17)


追記:親が子に残せる最後で最大の贈りものは、死んでゆく姿、とくにそのあり方である。死は、当人にとっても看取るものにとっても、最高のサーダナ(spiritual practice)になりうる。誰もが死にゆくとき、その一瞬を思い出すだろう。

「死んでゆくときの最高の備えは、思考を静めハートを開いておくことだ。
 生きてゆくときの最高の備えは、思考を静めハートを開いておくことだ」
                                 --ラム・ダス
              
posted by ダー at 20:35| Comment(0) | スピリチュアル・瞑想・心 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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