2017年03月30日

「宗教色を出すのがタブー」という宗教からも自由になる

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外国へ行くと「あなたの信仰は何ですか?」と聞かれ、何もないと言うと不思議がられるという話をよく聞く。ぼくは早い時期からクリスチャンなので、そういう経験をしたことはないが、宗教が違っても、信仰を持つ者どうしの反応はおおむね好意的だ。

例えばイスラム教徒の人でも、ぼくがキリスト教徒と聞くと、「お互い神様を持ってるってのはいいね、ほんと」という話になりやすいのである。よく言う宗教的な対立など、政治的に煽られているだけなんじゃないかと思うほど、庶民レベルでは親近感しか覚えがない。

ぼくは過激なカルトでない限り宗教大好きなので、いろいろな寺院にお参りをし、施設に泊めてもらったこともある。人生の大きな転換をみたインド3週間の巡礼は、ヒンドゥー教の聖地巡りだった。

昨今のマインドフルネス(瞑想)ブームで、「宗教色を抜いたから安全」みたいな文句をしばしば目にするが、ぼくのように宗教的雰囲気に浸って生きている人間からすると、不思議でならない。何それあんた宗教に失礼じゃない?って言いたくなる。まあ、ぼく自身はそれとは関係なく危険人物だろうだけどね(笑)。

政治や公的な場で、宗教を持ち込まないのは仕方がないだろう。しかし宗教教育が行われない日本の学校は、個人的にはおかしなものだと思う。いろいろな宗教について学び、体験し、選べればいい。既成宗教には属さないスピリチュアルな伝統もある。または選ばなくたっていい。でも、今の状況では、選ばないという選択さえ(意識的には)できないのだ。

世界中にこれほど豊かな精神的遺産があるのに、一生まったく触れないどころか避けて通るなんて、愚の極みと言っていい。それこそ、不自然な洗脳を我々は受けているのだ。つまり物質主義、拝金主義、合理主義、個人主義というカルトによる、幼い頃からの顧客教育である。

今までも随分書いてきたが、マインドフルネスで〜〜を手に入れようみたいな論調が(予想通り)行き過ぎている。もちろん入り口として、心が落ち着く、効率良くなる、健康を取り戻すという体験があってもいいし、むしろそうでなければ誰も実践しようとはしないだろう。しかし、それと「宗教色がない」という<歪んだ安心感>を結びつけることには、異議がある。とりわけ、ビジネスに絡めてそれを売りにするケースが目に余る。

はっきりと言わねばならない。それは健康法であり、幸福実現法であり、成功法ではあるかもしれないが、マインドフルネスではない。そこにマインドフルネスを使うことは、騙りである。モヤシをイチゴだと言って売るに等しい。ほんと使って欲しくないなあと思う。まあ、思っても仕方がないんだけどね。いちおう愚痴るだけは。

一法庵の山下良道師がある雑誌の記事を紹介して、本来のマインドフルネスについて語っていたが、そういう発言をする人が随所にいることが重要だ。「いろいろな考え方があるからお互いに認めあいましょう」というレベルの問題ではない。守らねばならないことはある。

彼はマインドフルネスを利用して、またも目の前のおいしい目標をつかもうとさせる報道などを指し、「ニンジン教」vs 「マインドフルネス」とユーモラスに表現している。(言語センスとユーモアは常に必要だ)

<「宗教色を出すのがタブー」という「ファッション誌というもうひとつ別の宗教」の教義の分析、その理由、その雰囲気、そしてそこから我々のいる場所との距離感を掴む> (山下師の文章から引用)

山下師は、この女性雑誌を「宗教教団の広報誌」なので初めから論調なんて決まっていると「穏やかに」(笑)諭しているのだが、多かれ少なかれそういうものだろう。記事の内容や執筆者の言をマジで受け取っている人がいるとすれば、それこそ恐ろしいことだ。

ティク・ナット・ハンの14のマインドフルネス・トレーニング(十四戒)の第一項には、「たとえ仏教でも絶対視しないこと」とある。それは慈悲と理解を育てる導きの手段であり、決して闘い、殺し、いのちを捧げるような教えではないのだと。

「ハマっている世界」から繰り返し抜け出そうとすること。そうして、あらゆるタブーから自由になること−それがなければマインドフルネスではない。
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