2015年02月25日

ワイルドサイドを歩け

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(別件ですが、最近もっともワイルドだったある地方都市の食堂)

ずっと昔のことだけれど、友人のシンガーソングライターの奥さんが知り合いから「いいわねぇ自由で。うちなんかいつも決まりきった生活で」と言われて、「そんなことないわよ、毎日やりくりが大変なんだから」と答えていた、その場に居合わせた記憶が鮮明にある。

たしかに、経済的な不安定さはとてもしんどいものだと、その当時とくに安定した収入源もない学生のぼくは思ったものだ。あれ以来、さまざまな仕事を経てきて、四十代に正職員となるきっかけがあったものの、それもウツの再発でボツに。原因が果たして仕事のストレスだったかどうかはわからない。それを最後に、安定したサラリーマンの道は完全に断たれたことになる(たぶんこれからもありえない?だろう)。

もともと正職員になる希望があったわけではない。社会が嫌いだった引きこもり系のぼくは、旅に逃げてばかりいた。しかし、いつまでも逃げ切れるものではない。日本に帰れば食っていかねばならないのだが、それには相当のストレスに耐えねばならないような気がして気が遠くなった。そして実際に我慢を続けていると病気の再発、というグルグルめぐりの悪循環である。

「好きなことをやって食っていく」という言い方がぼくは好きでない。好きでも嫌いでも食っていかねばならない、そのリアリティに耐えている人がどれほどいるかと思えば、またそれはぼく自身でもあるのだが、軽々とそんなこと言えたものではないのだ。

経済的な不安定さは、精神の不安定にもつながる。それもかなりのストレスになるので、できればちゃんとした定収入はあった方がいいと思う。とくに学生諸君には言いたいね。ぼくは、経済的に安定するめどが立たなかったので、心を安定させるために瞑想などの精神的取り組みを始めたというのも無視できない一要因である。

それでもなおかつ、ここで言うよ。言っちゃうなら、どうせ生きるなら「ワイルドサイドを歩け」ということだ。経済がままならないエッジーな生活であっても、そのひりつく現実感を引き受けつつ胸を開いて踏み出していく。エネルギー源は「根源的な欲求」だ。

自分の中の源泉であるそれしか、本当に自分を生かすものはない。それにつながることがなければ、生きていてもゾンビだと思う。「お前はどう生きたいのか?」激しく自分に突きつけたことがどれだけあるだろうか? それは「好きなように生きる」というのとも違う。「そうでしか生きられない」という切実さだ。現実との軋轢さえ、導火線を刺激する火花となる。

ワイルドサイドには道がない。草や石がゴロゴロする乾き切った大平原だ。水は自分の中から汲むしかない。道しるべは自分がつけていく。すぐそばには舗装道路があるのに、多くの人がそこを歩くのに、なぜそうしないのか? そんなことはわからない。とにかく自分を突き動かすものが、その死の匂いのする荒れ地にしかないからだ。

そこで毎日自分の死に出会う。自分の屍を超えていく。自分を書き換えながら進む。そうしなければ、肉体があっても死に等しいと感じてしまう。心の底の井戸から根源的な欲求の水を汲みながら(けっしてそれは枯れないから)どこまでも歩いていくのだ。

そう生きることは経済的な困窮とは関係ない。リアリティは荒波のようなもので、安定とは止まって動かないことではなく、つねに波乗りをしながら変化に対応していくことなのだ。

タイトルを聞いて、ロバート・ハリス氏の著書「ワイルドサイドを歩け」を思い出した人も多いだろう。やんちゃでダンディな彼の自伝はとても興奮するものだった。一回だけじかにお会いしたことがあるが、目がキラキラした人だった。

さらに、その本のもとになった、ルーリードのWalk on the Wild Sideもなつかしい。
https://www.youtube.com/watch?v=0KaWSOlASWc

今朝そのハリス氏がラジオに出演していて、運転するぼくの隣に座る息子のおしゃべりもうわの空に思わず聞き耳を立ててしまったのだが、もはやワイルドサイド現役ではない氏の話しは、残念ながら退屈なものだった。近刊の新書では、ワイルドに生きる六か条みたいなものを紹介しているらしいのだが、そういうスタイルじゃないのにと思う。

ワイルドサイドは、何もバックパッカーにならなくたって歩ける。今でもぼくは、この日常がとてもワイルドだと感じている。それにもう貧乏にこだわる必要もないのだし。

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