2015年02月24日

タンポポの微笑み

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(幸弥撮影)

調子に乗っているときが一番危ないんだと、最近どこで言ったのか記憶があいまいであるが、自分にたいする戒めがほとんどであった。ある場が、うまくいけばいくほどいいというような自己啓発セミナーのような空気に満ちてくると、決まってそう言いたくなる。

こうすれば儲かります、これで健康に、幸せに、問題は解消します。そのような軽口を下手すれば自分もたたいてしまいたくなるときがある。調子に乗っているときだ。富、地位、名誉などが重要ではないと言いながら、目の前にそれらをぶら下げられれば、やっぱり走ってしまう悲しい性をもっている。

ぼく自身は、八木重吉、中勘助、高見順、フランシス・ジャム、ヴィクトール・フランクル、山尾三省、マリア・リルケ、ジブランなどを手に取らない時期が続くと、危ないと思っていい。そんなときには、悲しみの深みにある痛切さ、苦しみの底に光る祈りを忘れている。

感傷ではない。リアリティのことだ。今度こそ本当に生き直さなければいけないというときに、ダンスパーティに出かけて浮かれているというのに似ている。とりわけ昨今、この苦しみの時代にスピリチュアルなパーティが花盛りである。みんなおめかしをして、うきうきと幸せを語りに出かける。クローゼットに苦しみを押し込めたままで。あんたは留守番してなさいと、冷たく言い放って。ぼくもそうなりがちなときがあって危ない。

いよいよ日本にも瞑想のブームが到来の兆しである。数十年日陰で瞑想に打ち込んできた人たちは、ようやく陽の目の時節到来と溜飲を下げているかもしれない。または、世間がどうも騒がしくなったと顔をしかめるかもしれない。ぼくはどちらの気持ちも少しずつはあるけれど、今まで通り世間に居ながら今までのように瞑想をすると思う。

出版や執筆の機会が増え、人前で話すことも多くなった。正直なところ、去年後半から今に至るまで、まったく息つく暇もない。そのあいだにうちの畑は鹿の食害にあい、白菜、キャベツ、ブロッコリー、ニンジン、大根、空豆、菜の花などがほぼ壊滅した。これも、心をかけてやらなかった当然の報いのように感じている。たんに食料を失ったばかりではない。鹿たちが喜んだことは間違いないが。

○○なら島田さんに頼もうということで呼んでいただくのはありがたいのだが、事実まったくぼくは「マインドフルネス」の宣教師などではない。時おりその振りをしなければならないのは、まことに不本意なことである。何より妻が知っている。夜出かけてなかなか帰らない機会が増えるのは、家族というサンガにとってはけっしていいことではない。

気づくこと(マインドフル)ができないから、その練習をしているのだ。さらに言うなら、それでもなおかつ気づくことのできない自分を知らされるのである。瞑想をしていると、たとえば「悟り」のような形でゴールが見えていて、だんだんそちらの方に向かって自分が良くなっていくように感じられることがある。とんでもないことである。

すればするほど、自分が何かとんでもなく間違った腑に落ちない、本来とかけ離れたことをしているように感じられることさえある。それは瞑想自体というよりも、取り組み方を勘違いしているときだ。ティク・ナット・ハンの瞑想に関して言えば、「気づけない、微笑めない自分」が知らされる。では瞑想なんてしたってしかたがないのか?

ちっとも心が晴れないなあと気落ちしながらとぼとぼと歩く。そんなときには、一歩一歩に気づくこともなく、しかめっ面で歩いているに違いない。そのとき、道端にタンポポが咲いている。密やかに黄色の光を放つその一輪に目をとめる。タンポポが微笑んでいた。

「私は微笑みを忘れてしまった、でも心配しないで。タンポポが微笑んでいるから」。私は微笑めなくても、タンポポはいつでも微笑みながらそこにいた。できない自分、至らない自分は、どうしようもなく変わらない。そのとき、タンポポという姿で微笑んでいてくれる、ぼくたちを受け止めるまなざしがある。それが救いであった。

悟りに向かって日常を「抜け出ていく」ことが目的なのではない。ぼくたちはイカロスのように墜落するだろう。落ちて落ちたときに、そこには地面がある。それは上にあるのではなく、「底」で待っている。それは受容であり、許しである。

上のタンポポの詩は、ティク・ナット・ハンその人によるものだ。その言葉は、悟った場所から降りてきたものではない。自分がどうしても悟りきれない、悲しみと絶望を体験した人の言葉である。そのとき、ふと気づくとタンポポが微笑んでいた。

それはいくぶんか悲しみをたたえた微笑みである。そのように、待っていた何ものか、その存在も一緒にぼくらの業の深さを知って悲しむ。悲しみは、愛しみである。

ダンスパーティに行くことはやめて、自分の本当の家にいること。そこは悲しみに満ち、重苦しいこともあるだろう。しかしそこでしか本当にはぼくらは微笑むことはできない。どこにも出かける必要はない。ぼくらはすでに、その家にいるのだから。

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